No.215(2024年2月号)

特  集 ◆ シリーズ清水 2024◆海のみらい静岡友の会

興津の技術が支えた日米友好の「桜」

興津薄寒桜物語

2月、興津のまちの各所に植えられた薄寒桜が見頃を迎え、

ここでは一足早い春の訪れを感じます。

この桜の歴史を紐解けば、日米友好に

興津が一役かっていた事実が浮かび上がります。

今回のイノセントは後世に伝えたい興津の桜物語をお送りします。

 

早咲き桜 興津薄寒桜

春の訪れを感じる花と言えば、なんと言っても桜ではないでしょうか。3月中旬から4月にか

けて全国各地で花が咲き、花見やお祭りで賑わいます。

桜の中には「早咲き」と呼ばれる種類もあり、早いものは1月中旬頃から2月にかけて本格的な春の到来に先駆けて満開を迎えます。早咲きの桜は〝寒桜〞と呼ばれ県内では土肥桜や河津桜が有名でが、清水区興津にも清見潟公園を中心に、町内各所、興津川沿いから薩埵峠( さったとうげ)などに早咲きの「薄寒桜」が植えられ、1月下旬頃から2月中旬くらまでその名のとおり淡く薄い小ぶりなピンクの花が咲きます。この桜はソメイヨシノより見頃が長いのが特徴で地元住民はもとより土地を訪れる人の目を楽しませます。

今年も2月4日には毎年恒例の「興津宿寒さくら祭り」が盛大に開催され、多くの来訪者で賑わいました。今や興津地区のシンボルとも言えるまちの賑わいづくりに欠かせない存在でもある薄寒桜ですが、その誕生には知られざる壮大な物語が秘められているのです。

 

アメリカ人も待ちわびる、桜の春

ここで、話はガラリと変わります。春の訪れを桜の開花で楽しむのは日本人だけではありません。アメリカ合衆国のワシントンD .C . のポトマック河畔では毎年の桜の花が咲く時期に全米桜祭り( N a -tional Cherry BlossomFestival)が行われ、全米各地はもとより、世界中から観光客が詰めかけます。祭りではパレードをはじめ日本に関する文化イベントが多数行われ、夜のライトアップや花火大会など、日本と変わらない花見風景が見られます。

この桜こそ日本生まれの「ソメイヨシノ」であり、一世紀以上も前に日本からアメリカに贈られ激動の歴史を乗り越え今も咲き続ける日米友好の象徴なのです。そして、この寄贈は興津の高い技術なくしては実現できなかったのです。

 

アメリカへ日本の桜を咲かせたい

物語は1885年(明治18年)に始まります。1 8 8 4 年( 明治17年) 、著作家でありナショナルジオグラフィック協会初の女性理事であったエリザ・シドモア女史が初めて来日した際に日本の桜文化に心を打たれたことから翌年にアメリカへ帰国した際、ポトマック河畔に桜の木を植えることを提案したのです。

しかし、その後女史はアラスカでの活動に注力したため、この物語は一旦足踏みをすることとなります。しかし、1 9 0 9 年(明治42年)に当時のアメリカ大統領だったウィリアム・タフト氏の妻、ヘレン・タフト夫人へシドモア女史が桜植樹の提案についての手紙を送ったことから再び物語は動き始めたのです。

この提案をファースト・レディが後押しし、その頃ワシントンにいた日本人科学者の高峰譲吉氏と駐ニューヨーク日本総領事の水野幸吉氏の知る事になったことでトントン拍子で話が進むこととなりました。特に水野氏は日露戦争で在留邦人保護に尽力した人物で、日露戦争を終結し平和回復に導いた米国に恩義を強く感じていた人物であったことと、シドモア女史とも知り合いだったことから、高峰氏と協力し桜の植樹を日本政府に強く働きかけたのでした。

この提案・計画の実現に向け外務省の依頼を受け動いたのはその頃の東京市長であり衆議院議員でもあった尾崎行雄氏でした。尾崎氏もまた日露戦争の講和に助力したアメリカに対し何か礼をと考えていたこともあり水野氏から持ちかけられたこの話から桜の寄贈を受け入れたのでした。すぐに桜は手配され2000本もの苗木がアメリカに向け出発したのですが、1910年(明治43年)に到着した際、苗木は長い船旅の道中に無数の害虫や病気に汚染されていることが分かり検疫を通過することができずアメリカに入国することなく、やむなく焼却処分されることとなったのです。

 

興津の技術が貢献した 第二の挑戦

しかし、これにめげず尾崎氏は再度の桜寄贈を決定、ニューヨークハドソン河開発300周年記念式典に向けさらに3000本、合計6000本もの桜を寄贈することが決まりました。このプロジェクトに2度の失敗は許されません。そこで害虫に強い桜を確保するよう指示を出し、東京市は農商務省農事試験長から助言を受け、当時日本で苗木栽培に一番優れた技術を持つ興津の〝農商務省農事試験場園芸部〞に苗木づくりを依頼したのです。

台木に兵庫県川辺郡東野村(現・伊丹市東野地区)の桜、穂木には東京荒川堤で採集した桜を選び、試験場で接ぎ木、育成が行われました。農薬のない時代に健康で害虫に強い苗木を作ることは容易なことではありませんでしたが、植え込み、施肥等精魂込め育成し、害虫駆除なども念入りに行いながら苗木づくりは進められました。穂木のための桜は59種類にものぼったと言うことです。

結果1912年(明治45年)2月、興津で生まれた桜の苗木6040本がアメリカに向け出発、今回の苗木には害虫や病気が全く付かず無事シアトルに到着し、陸路鉄道を経由してワシントンD.C.に持ち込まれたのです。台木の由来からポトマックの桜は〝伊丹市育ち〞と言われていますが、その裏で大きな貢献を果たした興津は忘れてはいけない存在です。

 

返礼のハナミズキと 桜の女王来日

1 9 1 5 年( 大正4年)、アメリカから桜のお返しとして、アメリカの国民的な花木であるハナミズキが送られ、桜寄贈のゆかりの地である興津の試験場にも植栽されました。現在、試験場は「独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所カンキツ研究興津拠点」として主にカンキツ類の研究を行っています。その場内には「ワシントン桜誕生の地」の碑が、そしてアメリカから贈られたハナミズキの原木も現存しています。

2 0 1 2 年( 平成26年)には桜の寄贈・植樹100周年記念の年を迎えました。興津生涯学習交流館にはワシントンDCさくらプリンセスが来興、第24代日本さくら女王も駆け付け「里帰り植樹式」が盛大に行われました。日米桜寄贈100周年を記念し100年前に贈った桜の子孫から接ぎ木された苗木144本が日本に贈られ、そのうちの5本が清見潟公園など興津地区に植えられたのです。

今振り返ると桜の寄贈からすでに112年の歳月が経っています。この物語も歴史の扉を開かない限り掘り起こされることはないかも知れません。しかし、興津にとって大事な歴史の一つであるこの物語はこれからも語り継がれてゆくことが大切だと思います。

 

興津の人々の想いで残った薄寒桜

試験場でアメリカに寄贈するために育てられた苗木のうち、日本に残った桜は同試験場内に植栽されましたが、その後様々な事情により薄寒桜1本だけが残りました。この桜はソメイヨシノに比べ開花が早く、薄いピンクの花をつけます。30年ほど前、この薄寒桜が立ち枯れ状態となり、これを心配した地元の有志たちが「このまま枯らすわけにはいかない」と採穂して苗を育て、薩埵峠に植栽を行いました。

その後、興津地区連合自治会が2000年(平成12年)に「薄寒桜を育てる会」を発足、植栽は計画的に進められました。100年前に興津で育成され1本だけが残された薄寒桜が今や興津の人々に手で大切に育てられ続けられているのです。

 

今ある「当たり前」を いかに引き継ぐか

「現状維持はとても大切で事であり、大変なことなんだよ。」と話すのは興津連合自治会長や清水区連合自治会長を歴任した、現在興津の教育文化部会長を務める高山茂宏さんです。興津地区では薄寒桜や清見寺ゆかりの朝鮮通信使の歴史を大切に、まちづくりやまちの賑わいづくりに活用してきました。現在、薄寒桜の手入れなどをしているのはまちの緑化推進委員会ですが、「興津宿寒さくらまつり」は今年で27回目、「薄寒桜を育てる会」が発足してから20年以上が経ってきているため、これらの中心となって活動してきた方達の高齢化が進んでいます。

「今、まちづくりやまちおこしは何をやったら良いか分かり辛い時代になっています。薄寒桜にしても朝鮮通信使においても〝想い〞を持って頑張っている人がいる間はいいが、想いがない人が引き継いでしまうと消えてしまいます。今あるものは〝当たり前〞だけど、その〝当たり前〞を地域の人が参加して目一杯盛り上げて行く事が大事だと思います。現状維持と言えば後退と捉える方もいるかも知れません。本来は一歩でも二歩でも前進するのが良いと思いますが、本当に後退するより現状を維持することで無理せず今後につなげてゆくことがが良いのではないかと思います。」と歴史、事業、まちづくりの継続の大切さと難しさを口にした高山さんでした。

 

『イノセントが感じたコト』

華やかな舞台の裏には必ずそれを支える黒子の存在が欠かせません。しかし、彼らの活躍はあまり語られることがないように思います。一世紀以上も前の出来事の結果が今も続いていることは歴史に残る偉業として語り継がれる物語ではないでしょうか。また、少子高齢化による後継者不足の影響はまちづくりにも確実に影を落としています。

表舞台と同様に語り継ぐ偉業を胸に、興津の財産を未来に引き継ぎ、今以上にまちづくりを盛り上げる〝想い〞を持った次世代が現れることを願ってやみません。