No.208(2022年12月号)

特  集 ◆ シリーズ清水 2020◆台風15号を振り返る

防災を見直し 次の災害に備える!

9月23日の深夜から24日の未明にかけて静岡県に最接近した台風15号は清水区に局地的な大雨を降らせ、各所に大きな爪痕を残して行きました。
床上・床下浸水、土砂崩れ・流入、河川反乱など、加えて近年清水区で体験したことのない大規模な断水。
この災害を通じ皆さんは何を思い、感じたでしょうか。
あの日のリアルを一部振り返ってみたいと思います。

油断と予想外深夜の大雨

 「まさかここまでの災害になるとは思ってもいなかった。」と話すのは清水区江尻台で浸水被害に遭った映像クリエイターの楊珂さんです。

 彼が住むマンションのすぐ前には巴川があり、普段は穏やかな流れと静かな景色が心を和ませます。

 秋は台風シーズン、季節の変わり目とあり天気は不安定、局地的な大雨情報が度々発せられたにも関わらず近年当地では目立った被害が発生してきませんでした。この日も近くに設置されている同報無線のスピーカーからは雨に注意する呼びかけがされていましたが、これまでの経験から〝今回も大したことはないだろう〟と高をくくっていたそうです。

 午前0時頃、七夕豪雨(昭和49年発生)を経験した大家さんから「雨が酷くなるみたいだから気をつけた方がいいよ。」と連絡が入ったものの、相変わらずいつもと変わりないだろうと言う気持ちのままでしたが念のため気象アプリで状況を確認してみたところ、どうやら雨のピークは午前3時頃と判明。少し危機感を覚え住居があるマンションの3階から外の様子を確認してみると既に10cmほどの雨水が貯まっているのが見えたそうです。

 そこでまず車を非難させることに。車で家を出ると早くも渋川橋東交差点で立ち往生している車を発見、居る合わせた人たちと協力してその車を救助した後、自分の車を危険性の低い場所へ移動し、再びマンションへ戻ったとそうです。

そして、雨に沈んだ清水の街

 午前2時頃、気付けば水位は膝くらいまで上がるも勢いは止まらず、どこが道路なのかも分からないどころか、川と陸地の境すら分からない状態。この状況に周りの家のドアを叩いて安否の確認をしたい気持ちもありましたがそんな行動が出来ないくらいの危機が階下に迫ってきていたそうです。

 真っ暗になった街に時折稲妻が走り、激しく降り続ける雨音の中に無機質なサイレンの音が鳴り響く。誰もいない街、目の前で起きていることは間違いなく現実なのにまるでSF映画を見ているようだった、と当時の心境を語りました。

 やがて午前4時に近づく頃になると雨は小康状態に。普段趣味で様々なアウトドアスポーツを楽しんでいる彼は保有する手漕ぎのゴムボートを用意、自家用車の安確認のために街に漕ぎ出すことに。

 午前4時半過ぎ、少し明るくなりかけた頃ボートにまたがり周りの様子を見るとそこはまるで湖のような別世界ながらの光景が広がり、見上げると近所の住人もベランダから身を乗り出し、呆然と目の前に広がる世界を眺めている様子、お互いに目が合えば頷き合い、そして声を掛け合って無事を確認、やがて完全に明るくなった午前5時頃には見るも無残な全貌が明らかに。

 被害は一様ではなく地面の高低差により大きく違うのがハッキリと見てとれ、水没した電信柱の位置から深いところでは自分の背丈を超える程もありそうな水位を確認、そしてボートが進む先に屋根まで沈んだ見つけるたび「中に取り残された人はいないだろうか。」と心配と不安になり一つずつ見て回ったそうです。

手探りから生まれた協力体制

 やがて完全に陽が上り朝を迎える頃には水が引き、街が姿を現すとそこに残されたのは、踏み込むと足が取られ身動きが出来なくなるほど水を含みぬかるんだ大量の泥でした。

 その頃になるとあちこちから住人が集まり、おのおの手にシャベルやスコップを持ち寄り泥の除去を始めたのですが、みんなまだ目の前の現実が信じられない様子で、ただ黙々と作業にあたると言ったありさま、それはまさにカオスと言っても過言でない状況。

 貯まった泥をどう処理して良いか分からず、ひたすら効率が悪いが作業が続きそうに思えたため楊珂さんが声を上げたところ、事態は一変、あちこちから声が上がったことでそこに居た人たちの間に協力体制が生まれ、作業は一気にはかどるようになりました。

 貯まった泥は水道水の水圧を使って流していましたが、やがて断水に。これで何も出来ない状態が続くことになりましたが、今度は被害を受けた家屋から浸水した家具などが外へ運び出され、道路は災害ゴミで埋め尽くされることに。やがて照りつける日差しの下、乾いた泥は砂塵を巻き上げ、生乾きのゴミや断水のおかげで詰まった排水溝からは異臭が漂うことも。断水の影響で泥の除去作業や災害ゴミの片付けは長期に渡ることになったのです。

全てが後手の「ストレス災害」

 楊珂さんは約20年前に中国・湖南省から来日、静岡を居住の地に選んだ理由の一つに「大規模な地震が発生すると言われ以前から防災対策を行ってきた防災先陣王国」であると言う安心感を挙げました。しかし、今災害を目の当たりにして防災の足りなさを実感したと言います。

 彼は中国に住んでいる頃、死者が出るほどの災害を2回経験、しかし、これほどの災害が短い期間で発生するにもかかわらず、中国では防災訓練を行った記憶がないと言います。しかし実際に災害が発生すると住民は近所を回りまず声を掛け合い避難するなど自然的に行動を起こすことが当たり前で、災害後は手を携えて復旧にあたるのが普通なのだそうです。

 そこで彼は今回の水害に対して自ら「ストレス災害」と名付けました。

 理由として今回の水害は深夜に発生したことで住民が寝ているうちに起こったとことから、朝起きてみたら被害に遭っていた。経緯が把握できないためすぐに状況が飲み込めなかった。また時間を追うごとに市内各所の被害状況が明らかになるばかりか、断水を含め災害の被害を後から実感したこと。また情報不足で状況の把握ができないことのものどかしさを感じ、頼みの綱の行政からは(市民・個人が)考えていたような支援が受けられなかった、など全てがストレスにつながったと感じたからだそうです。

教訓を活かした訓練にしたい

今回の最大の教訓は経験した全てを忘れずに今後に活かす事。
 これまで災害発生に向けて様々な訓練を積んで来ましたが、それがかえって安心感や過信につながってしまったのでは、と指摘。 また、日頃から他人に迷惑をかけないように心がける礼儀正しさが仇となり災害発生時に対応の遅れが生じる事を危惧します。例えば、災害アプリや広報で災害発生の危機を察知し、近隣に触れ回ったが、実際には災害に至らず結果、余計なお節介になるかも、と考える事です。それを解消するためには普段から 近隣住民同士のコミュニケーションが大事だと実感したとの事でした 当夜、悪化する状況を目の前にして何も出来なかった自分を悔いつつ、今回の教訓を今後どのように活かして行くか、今は考えている最中。
 災害はいつ、どこで、どのような状況になるのか予測が付きません。これまでのような型にはまった訓練ではなく、状況に応じ臨機応変に行動・対応できる術を身につけることが重要。
 災害のちょうど1週間前に興津のNPO法人AYUドリームが主催した防災イベントに運営側として参加した楊珂さんだからこそ、これまで以上に意識を高めたいとの事でした。

清水再生。希望に満ちたまちづくり 〜イノセントからひとこと〜

 まだ清水区には災害からの復旧が出来ないていないどころか目処もたっていない箇所があるばかりか災害ゴミの処理や廃車になった車両の対応もまだ解決していません。きっと完全復旧には長い時間が掛かると思われます。しかし、この災害は今一度改めて清水を見直し、新しい清水のまちづくりへ向けスタートの起点になったと考えはどうでしょうか。復旧、復興の作業を続けると同時に、明るい清水の明日を造ることを考えることも必要だと思います。まだ出口の見えない新型コロナ感染症ですが、そろそろコロナの有りの世の中で以前の生活を取り戻すかと言うことも必要だと思います。

 例えば港に目を向ければ現在、清水港日の出を発着としている駿河湾フェリーの新ターミナルの建設工事が江尻埠頭で始まっています。順調に行けば近い将来ここに発着場が移転され、また上手く行けば来年には外国客船の清水港寄港が再開しそうな気配もあり清水港に人々の賑わいが戻ってきそうです。

 JR清水駅東地区への新サッカースタジアム実現を目指す市民団体の活動も活発化しており、もしこれが実現へ進めばサッカースタジアムを核とした賑わいあるまちづくり創出へと夢が膨らみます。

 2022年が間もなく終わりを告げようとする頃クリスマス、そして続いて新年お正月がやってきます。暗いムードを吹き飛ばす想いを込めて清水駅周辺を彩るイルミネーションがあったらいいと思いませんか?

 来年は静岡市長選挙や静岡県議会選挙が控えています。清水っ子の力で清水を明るく元気にして行く気持ちをこの災害は与えてくれたと前向きに考えたいと思います。やらざー!清水っ子。