創業100年、清水銀座と清水駅前商店街にお店を構え、長い間駅周辺を見守ってきた老舗、メガネの春田の社長、春田政孝さんに話を伺いました。
清水七夕まつりは今年で68回を迎えます。始まりは戦後間もない戦災からの復興を目指すことが目的でした。そこで、それまで各々の店先で小規模に飾られていた七夕飾りを大規模に飾り立て、昭和22年(1947)から開催されている「清水みなと祭り」に負けないような東海地区の名物にしようと昭和28年(1953)に第1回目が行われました。
「第1回清水七夕まつり」は〝清水銀座商店街〞をはじめ〝清水駅前銀座商店街〞〝東海通り商店街(現、江尻東一丁目、二丁目界隈)〞や巴町、袖師、相生町などから2000店にも上る商店が参加し、まさに目標以上に盛大な祭りが開催されたのでした。
当時、清水市内各所の商店街は人が集まる賑わい溢れる場所でした。中でも清水銀座は東海道江尻宿の本陣や商家が建ち並んだ歴史を持つことから〝宿通り〞と呼ばれ人通りが最も多い商店街でした。特に大正から始まった目玉商品を集めた「おばけ市」と呼ばれたセールは多くの客を集た大人気の催しでした。
その頃、商店街を牽引したのは〝繁栄会〞と呼ばれる組織(後の清水銀座商店街振興組合)。そこには店主らから成る〝旦那衆〞と呼ばれる集まりがあり、彼らが七夕まつり開催の原動力になったそうです。
この成功により清水七夕まつりは清水みなと祭り、清水灯ろうまつりと並ぶ清水の三大夏まつりの一つとして定着、さらには仙台、平塚と並び日本三大七夕まつりと呼ばれるまでになりました。
七夕まつりの主役と言えば竹竿に吊され夜空をヒラヒラと舞う〝くす玉飾り〞です。人の背丈を優に超える程の大きさがあるこの飾りは全て商店主たちによる手作りの作品です。
作り手でもある商店主たちのモチベーションを高め、人々を楽しませる飾りを作る目標としてコンクールが行われ、優秀な作品を作ったお店には「経済産業大臣賞」や「県知事賞」など名誉ある賞が授与されました。コンクールは市長を始め、市議長、商工会議所会頭、観光協会会長や賞を提供した団体長らが審査にあたり、作品の出来映えや、昼間と夜の見え方の違いを比べる等して各賞を決定しました。
まつりが始まった頃から昭和50年代頃までは景気が良く各商店には従業員がいて、まつりが近づくとお店は従業員に任せ、店の奥では店主ら家族や親戚、友人らが集まり飾りづくりに精を出しました。飾りづくりに掛かった費用は全てお店の自己負担だったそうです。「お客様へ日頃の感謝を込めて。」との想いで当たり前だったそうですが、第1回開催を伝えた新聞記事によると「竹竿1本に千円から一万円はかけたと言われ、ザっと見積っても三百万円ほど」と書かれていることから現在の貨幣価値に換算すると、一万円掛けた竿ならば200万円の価値があったかも知れないと考えられます。(一概に貨幣価値に換算できませんが、当時の10円は現在の約200倍の貨幣価値があると言われていることから例え話として)これを商店で負担したとすると大変な額だったと思いますが、一方で当時はそれくらい余裕がある程に商売が繁盛していたことも伺えます。
コンクールの結果も手伝ってか清水の飾りは独自の進化を遂げました。
一般的な〝くす玉飾り〞では飽き足らず、その時の流行りや時事ネタ、人気のキャラクターを飾りで表現、夜にも見栄えするよう電飾を施すなど大がかりで手の込んだ〝仕掛け飾り〞が台頭するようになったのです。
常連のように賞に輝くお店では早くは3月頃から飾りづくりの準備を始めた他、独自の花の折り方は門外不出、どんな飾りを作るかも商店街仲間でも当日までのお楽しみとばかりに秘密にしていました。
まつりは昭和40〜50年代に盛期を迎えました。
「まつりの当日はこの狭い商店街(清水駅前商店街)の道を挟んだ向こうのお店が見えないくらいの人が押し寄せたよ。」と春田さんは笑顔で振り返りました。
昭和の高度成長の波に乗り、商店街もまつりも大きくなっていきました。しかし、まつりの発展は決して景気だけに頼ってきたわけではありませんでした。
まつりを盛り上げるために巴川で花火大会が行われたこともありました。
また、当時はコンテストで選ばれたミス清水らを連れて近隣市や県外に観光キャラバンに出掛けまつりをPRしました。
この成果もあり地元以外から年に一度のまつりを楽しみにした見物客が詰め掛けるようになりました。
ある時、清水七夕まつり実行委員会の女性委員から「七夕の物語にちなんで結婚式をやってみたらどうでしょう。」との提案があったのを切掛けに、事情により結婚式を挙げられなかった夫婦を募集、応募があったカップルの中から抽選で1組に限り費用は全てまつりの実行委員会が負担する形で「七夕結婚式」を行ったことも盛期の頃の良い思い出です。
このように様々なアイディアと工夫で趣向を凝らし、まつりに人を呼び込むことで商店のPRにもつながっていました。
思い起こせばこの頃はイベント運営に携わる勢いのある若者が商店街に多くいた頃でした。
きらびやかな飾りと賑わう人々。楽しく華やかな思い出が残る一方で清水には忘れられない戦慄の一夜があったことを語らずにはいられないと春田さんは眉をひそめました。
昭和49年(1974)7月7日、日曜日。
あの日は朝から雨がシトシトと降っていました。折しもこの日は〝七夕選挙〞と言われた衆議院議員と県知事のダブル選挙があり、朝から投票を終えた観客がまつりに詰め掛けていました。雨のおかげでアーケード内には人が集まり、その喧噪で雨が強まっていることに気付きませんでしたが、夕方頃になると人々が次々と家路を急ぐのを見てこの日はお店を早仕舞いすることにしました。
当時、清水銀座商店街のお店の2階に住んでいた春田さん。駅前からの短い家路にもかかわらず、その時は傘が役に立たない程の強い雨だったそうです。当時の記録によると台風8号が九州の西から日本海へ進んだのに伴い、東海地方に停滞していた梅雨前線が活発化し、静岡市では24時間の雨量が500ミリを超える記録的な大雨になったとされています。
一旦帰宅しひと息ついた夜の10時を過ぎた頃のことでした。
「駅前で水が出た。」と連絡が入ったため急いで駅前銀座のお店に駆けつけてみると水はすでにくるぶしを越えるくらいの状況、急いで従業員総出で商品を2階に避難させました。
これでひと安心と自宅へ帰ると今度は「巴川が氾濫している。」との知らせが。まさか、夢にも思わなかった巴川の氾濫の事態に1 階へ下りてみると、閉めてあるシャッターの隙間からみるみるうちに水が店内に入り気がつけばすでに膝の上まで浸水、なんとか商品を2階に上げたものの翌日、水が引いてみると店内は泥だらけ、見渡す限り街中が泥だらけになっていた景色には驚きしかありませんでした。近隣商店では商品が水に浸かってしまい売り物にならなくなってしまったそうです。今でこそ思い出話として語ることができますが、この大変な思い出は今でも忘れられない災害の記憶です。
時代は流れ、昭和から平成、そして令和へ。清水七夕まつりは昔の勢いを失っています。
たくさんの漁船が出入りした江尻の港から乗り降りした船員さんたちは駅前周辺の商店を利用するお得意さんでしたが、港の開発と共にその姿は減り、清水の経済を支えてきた造船業や木材(製材)産業の衰退、そして未曾有の災害となった七夕豪雨により街の姿は一変しました。
追い打ちをかけるように大型商業施設が進出。買い物客で溢れていた商店街の人通りはまばらになり、シャッターを下ろしたままのお店も増えました。まつりにもその影響は出始はじめ、最盛期に200本を超えた七夕飾りは2015年頃には三分の一程まで減ってしまいました。まつりを支えてきた店主たちの高齢化が進み、昔のように飾りをつくる重労働が大変になってきました。後継者不足も深刻で次の時代を担う若者も数える程になってきています。
それでも近年は市内の小・中・高校の生徒さんや市内の企業が参加し何とかまつりを続けてきましたが、この2年は新型コロナウィルス感染症の感染拡大の影響を受けやむを得ずまつりを中止することになりました。
やっと今年3年ぶりに開催が予定されています。今年の会場は清水駅前銀座商店街が中心、JR清水駅東口広場にサテライト会場を設けることになりました。ある意味、新しいカタチでの清水七夕まつりのスタートとなるのではないかと思います。
コロナ禍で商店街へ足を運ぶ人が減り、このままでは地方の商店街は人々から忘れ去られてしまいます。だからこそ七夕まつりは商店街にとって大事なイベントの一つなのです。
「イベントは商店街の大切な情報発信」と春田さん。七夕だけでなく常に情報発信をすることが今後、商店街が存続することにおいて大切な手段の一つである共に、これからの若い店主たちがイマドキのツールをいかに活用していくかに期待をしたいと投げかけました。
また一部の市民からJR清水駅東地区にサッカースタジアムを待望する声が挙がっていることにも触れ、実現すれば必ず商店街の活性化に繋がると期待を寄せました。
清水七夕まつりの始まりは商店街が発端ですが市民にとっては既に〝清水の文化〞の一つとし定着していることは間違いありません。
まつりの栄枯盛衰は清水の街のそれを写す鏡だと語る方もいました。
時代の流れに逆らうことはできなくとも、その時代にマッチしたやり方で継続し盛り上げることそして、清水だけでなく静岡市全体で考えて行くことが大事ではないかと思います。
中心には清水っ子が一丸となって清水のまつりをこれからも続けていくことを願うばかりです。