日本一 久能の石垣いちご狩り
唯一無二の栽培法。先人が築いた功績
毎年、年末から翌年の5月まで、久能街道(国道150号)は
いちご狩りに訪れる多くの観光客で賑わいます。
静岡市民にとって当たり前の「石垣いちご」ですが、
ここには語り継がれるべき歴史が刻まれているのです。
中部横断自動車道の開通によりがぜん活性化が期待される静岡の観光。久能海岸に面した有度山の斜面に広がるビニールハウス群と言えば「石垣いちご」です。今回は静岡・久能苺狩り組合にお話を伺いました。
久能の石垣いちごの栽培には約120年の歴史があることをご存知でしょうか。
有度山には徳川家康を祀る国宝久能山東照宮があります。明治29年(1896年)に宮司の松平健雄さんがアメリカから持ち帰った苺の苗を、東照宮に仕え車夫だった川嶋常吉さんが譲り受けたことが始まりです。この苗を石垣に植えたところ根をおろしたことからこの地ならではの画期的な栽培方法が生み出されました。
それが石垣栽培です。海や河原から玉石を拾い集め、一定の角度の石垣に積み上げその隙間に苗を植えました。ここで重要なことは有度山が造り出した斜面の地形が苺の栽培に適していたと言うことです。静岡は一年を通じて温暖な気候、そして南向きの斜面は陽をたっぷりと浴びることができることに加え、海からの反射光も届き、これにより昼間に十分な陽を浴びて温まった石垣は夜間に保温効果を発揮し土が冷えにくく根の育成を促します。
しかし、この苺の育成に最適な玉石を使った石垣づくりは大変な重労働でした。
そこで、大正12年(1923年)に玉石の代わりとなるコンクリート板が考案されました。縦15㌢、横45㌢のコンクリート板の上側には15㌢おきに3ヶ所の鋸歯状の切り込みを作り、この板を60〜70度の傾斜に7〜8段積みこの鋸歯状の切り込み部に苺苗を植え栽培するようになりました。
さらに重労働と言えば、水やりの作業もそのひとつです。斜面を活用したことで水を撒くと、水は下へと流れていってしまうため、水桶を担いで日に何度も登り上り下りを繰り返しました。しかし、言い換えればこの水はけの良さこそが甘い苺が育つ重要な要素の一つだったのです。
地元民を巻き込み、順調に生産量を増やしてきた久能の苺ですが、第二次世界大戦中は贅沢な食べ物とされ、農家は自給自足のため芋や麦の生産を余儀なくされてしまいます。
一時は苺の生産が下火となりましたが、戦後、再び盛り返すことになります。
県外から苺狩りに訪れる方に話を伺ったところ「ここの苺は他と比べて甘くて美味しい。」との声が聞かれました。現在、久能の苺栽培の主力となっている「章姫(あきひめ)」と言う品種です。この品種は鮮度が命とも言え、その甘さゆえに日持ちが難しいため県外の市場へあまり出回らないことから、ここでしか味わえない、久能ならでは品種と言っても過言ではありません。
それもそのはず、章姫は久能で生まれた品種なのです。
戦前の生産は「エキセル」や「マーシャル」「ビクトリア」と言った酸味が強くショートケーキにのせるための品種が主力でした。
戦後、大果で甘みのある「福羽」、昭和30年頃には藤枝市の堀田政五郎さんによる「堀田ワンダー」等を生産しましたが、いずれも主にクリスマスケーキに用いられる苺でした。
そんな中、「そのまま食べられる甘い苺」を作りたいと言う想いを胸に萩原章弘さんはただ一人で新品種の開発を目指したのです。何種類もの苗を交配し、毎年1000種以上の品種を作り続け、10000種にも余る育種の中から昭和58年(1981年)に「久能早生」が誕生しました。それからさらに10年、ついに〝そのまま食べられる苺〞が生まれました。それが「章姫」です。生みの親の章弘さんのから「章」をとってネーミングされた章姫は「静岡の人に食べて欲しい。地元のために作った苺だから。」との想いから品種登録をして3年間は県外に苗を出さなかったそうです。このため先述した鮮度に加え、今も全国的に知名度は低いものの、味わった人を虜にする魅力ゆえ、県外から足しげく通うファンも大勢います。
苺は市場出荷を主な目的として生産されていましたが、ある事をきっかけに「いちご狩り」が始まりました。
今から55年ほど前、クリスマスシーズンの盛期を終えた〝石垣いちご〞と〝観光〞を結びつけて久能や、駒越、三保へ人を呼び集めたいと、当時三保にあった三保園ホテルで支配人を勤めていた高木好巳さんが考えたのが全ての始まりでした。
昭和39年( 1 9 6 4年)、高木さんと懇意だった根古屋の生産者、横山さんの意見が合ったことで日本初の「いちご狩り」がスタート、好調な滑り出しを見せましたが初の試みゆえに多くの問題点も浮上、問題解決策のひとつとしてミルク(練乳)を入れたアイスクリームカップを来場者に提供するサービスを実施したところ当時まだ酸味の強かった苺の美味しさをアップするだけでなく、時間制限の目安にも効果を発揮するなど、好評を博しました。
そして昭和41年(1966年)には多くの生産者が市場価格の安くなった3月から石垣いちごを観光客に開放したところいちご狩りは広がり、以降、年内は市場出荷、年明けの生涯以降はいちご狩りと言う今ではお馴染みの形態が定着したのでした。
久能の石垣いちごのこれから(将来)ついて話を向けると頭を抱えて「難しいね。」とひと言、ここでも後継者問題は大きな課題となっています。
玉石からコンクリート板に変わる発明は画期的で、それまでの農業と比べれば大きな進化を遂げましたが重労働はなくなったわけではありません。
育成や管理に多くの労力を費やすことは当然のこと、生産を終えた後には通称〝空積( からづみ)〞と呼ばれる石垣の積み替え作業を行わなくてはなりません。これは石垣を土壌と共に一度取り崩し、再度積み上げ組み直しする作業ですが、夏の暑い日差しが残る時期の作業となるため高齢者の体には大変な作業となります。
今では日本全国で苺の栽培が行われており、いちご狩りも盛んになってきたことから、労働に見合った収入が見込めなくなっていることも後継者不足の原因のひとつです。
組合員の中を見渡しても40代以下の若い担い手は数える程しかいません。組合員が減少することは役員の持ち回りの周期が短くなり、本業に加え役員活動の負担も大きくなることから、このままでは組合の存続が危ぶまれる事態に陥りかねない懸念すらあります。
さらに、現在整備が進んでいる国道150号線の拡幅工事の影響で店舗を失った生産者の中には自店でのいちご狩りをやめてしまう方もいます。
現状、後継者問題については解決策が見えておらず、今後益々深刻な問題になってゆくことは間違いないと思います。
この2年間、新型コロナウィルス感染症の拡大は久能石垣いちご狩りにも大きな影を落としています。明確な出口が見えず今のような状況が続くのであれば、今後も対応に苦慮することになると考えられます。
だからこそ改めて『久能・石垣いちご』のブランド化が大切だと感じます。
約120年にも遡る石垣いちごの歴史を今一度広く多くの人、特に若い世代に知ってもらうことで他のいちごとの差別化を図ることが求められているのではないでしょうか。
自然に左右される農産物であることの宿命はあるものの、ここまで語られてきたここにしかない特徴や良さを伝えることに加え、安定した味のいちごを提供できればお客さんが増えることが期待できるのではないかと思います。
令和元年( 2 0 1 9年)に日本平久能山スマートインターチェンジが開設され、昨年は中部自動車横断道が開通するなど、相次いで静岡市に関係するインフラの整備が進んだことで久能街道への誘客のチャンスは確実に上向いています。
しかし、これらのポテンシャルを十分に活用できていないのが現状ではないでしょうか。スマートインターチェンジ周辺から各観光地への誘導サインひとつ取ってみても不十分と言わざるを得ない状態だと思います。
そこで、誘客のアイディアとしてぜひ提案したいのが「道の駅」の設置です。
静岡市街への観光、また日本平山頂、そして三保松原へ。湾岸道路(マリンロード)を利用して清水港日の出地区や河岸の市のある江尻地区、そして由比・蒲原への中間休憩地点として活躍することが期待できる他、苺を始めとした地元農産物の販売拠点としての役割を担うことができると考えます。
今、このチャンスを逃すことなく良い意味で〝行政が整備・設置したモノを利用〞することが地域住民の活力と賑わいを創出し、ひいては後継者問題を解決に導く糸口の一つになるのではないかと思います。