今回お話を伺ったのは、震災後から毎年被災地を訪れ〝歌声〟で元気を届けるボランティア活動を行っている清水区在住の「清水うたい隊東北ボランティア」代表の望月光則さんです。
「地震発生から一年後、被災地を訪れた私の目に飛び込んできたのは津波の凄さを見せつけられる光景でした。」
ドライブが趣味で以前からリアス式海岸で知られる三陸海岸へ行ってみたいと思っていました。そんな折り、自分が働く職場の若者は偶然にも岩手県山田町の出身でした。
彼から風光明媚な海岸の様子を聞くたびに益々東北への憧れを募らせましたが、同時に彼からよく聞かされていたのは、三陸は昔から津波の被害に見舞われてきたということでした。
やがて彼は長男ということもあり実家へ帰り、山田町役場の職員として働くことになりました。そこで、いつか彼が住む三陸に行こう、そう思っていた矢先、彼が帰郷してまだ一年も経たない三月にあの日がやって来たのです。
2011年3月11日 14時46分
その時、現地から遠く離れたここ清水でもハッキリと体に感じる程の揺れがありました。やがて、TV等の報道各メディアからは誰もが目を疑うような映像が流れ続けました。
元同僚の安否が気になるものの、連絡を取る手段はなく、山田町の状況を知ることは全くできず、心配は募るばかりでしたが、何とか彼と連絡が付き無事だと分かりました。しかし、彼から聞いたのは命は助かったものの実家も住む家も何もかもが津波に流されてしまったということでした。
地震発生から約一年が経った頃、彼を励ましに行こうと思い立ち、妻と2人で東北に向かいました。
一緒に仕事をしていた頃と変わらぬ笑顔で出迎えてくれた彼でしたが、その風貌は別人のようでした。若手職員ということもあり、きっと役場では震災現場の最前線の対応にあたっていたのでしょう、ガッシリしていた身体は痩せ、やつれた顔になっていました。
再会できた喜びを分かち合いながら、現地を見て廻り、清水から持っていった心ばかりの物資を手渡して帰路につこうとした時に彼はこう言ったのでした。
「どんな言葉でもいいから、この状況を静岡の人に伝えて欲しい。」と。
〝よし分かった〟と彼に返事したものの、後からよく考えてみると「伝えるとはどんな事だろう」との考えが頭の中を駆け巡りました。それに自分に何ができるのだろうかと更に考えた時、その言葉の重さが後になってのしかかってきました。
そこで「もう一度現地に行って、しっかり見て、聞いてこよう。」と考え、再び被災地を訪れることにしました。
彼の言葉を胸に「次に行く時は何か自分にできることはないだろうか。」と考えた時、目の前に妻が行っていたボランティア活動がありました。妻は福祉施設等を慰問して〝うた〟を届けています。しかし、わたしはうたは上手に歌えないし、楽器もできない。でも、企画ならできるのではないかと思い、うたい隊のメンバーに参加を募り、マイクロバスを仕立てて被災地に〝うた声〟を届けようと再び山田町へ向かいました。
そして仮設住宅のある場所で少しでも悲しみから離れて心安らぐひとときを作れればと、皆で歌って楽しい時間を過ごしました。
活動が終わり、そこに集まった人たちから「楽しかったよ。また来てね。」と声を掛けられました。
元同僚からもらった言葉から「もう一度行こう。」と決めて、被災された方々を喜ばせてあげたい、楽しませてあげたいとの想いからのボランティア活動でした。
その考え方は間違っていました。そこを訪れた私たちが皆さんの復興に賭ける熱い想いから逆に元気をもらったのです。
そこで、今後も毎年この活動を続けて行こうと決意すると共に、ただ行くのではなく「東北の良さを知ろう。被災地をしっかり見て、学んで、自分の声で静岡に伝えよう。」と改めて思いました。
当初、ボランティア活動の参加者は高齢者ばかりでしたが、回を重ねるごとに中学生や高校生たちも参加してくれるようになりました。
そして、改めて現地を見て巨大地震が引き起こした津波による被害に言葉を失いました。
実際に津波を見たことはありません。津波と言えば主に沿岸部での被害を想像していましたが、津波の先端は山裾まで届いていました。
そこにあったであろう町並みは全て消失し、住居の跡を物語るのは寂しく残された基礎だけ。その被害はとても言葉で語り尽くせないものでした。
現地で聞いた話には、海岸から少し離れた地区では、地震発生から津波の到達まで時間があったことから、一旦は高台へ避難した後〝まだ大丈夫だろう〟と思い自宅へ忘れ物を取りに帰った人が目の前で流されていく、そんな悲劇もあったそうです。
誰もが「助けたい」と思ってもどうすることもできなかったのが当時の状況だったそうです。
実際に津波に遭遇した人から、「何よりも自分が助かることが一番大事」だと聞きました。一瞬、非情にも聞こえる言葉ですが、その言葉の裏には「自分が助からなければ、大切な人を助けることもできない」という悲しくもこれが災害現場の現実だと思える、まさにその瞬間を体験した人だけが口にできる切実な想いが込められている言葉でした。
あの日から今年で10年が経とうとしています。活動を続ける中で、静岡で防災意識の啓発を目的に毎年行われている「防災フェスタ」の実行委員と知り合いました。そしてこのイベントの一環として東北への追悼と教訓を引き継ぐことを灯ろうの明かりに託す〝キャンドルナイト〟に参加しています。
これは竹紙を灯ろうに見た立てて火を灯すのですが、その竹紙には清水区の児童生徒さんや、各種団体の方々から伝えたい言葉や励ましのメッセージ、イラストを書いてもらっています。
昨年は新型コロナ感染症の感染拡大状況を鑑みて、このイベントも東北訪問も中止となりました。そのため今年こそは東北への想いと、医療従事者へのエールも込めてキャンドルに優しさの明かりをを灯したいと考えています。
3月11日はJR清水駅東口(みなと口)広場へ足を運んでもらえたら幸いです。
10年という歳月は時に短く、時に長く感じられます。
岩手県山田町の語り部さんから「最近は被害を受けた土地の人々でさえ避難訓練に参加する人数が減ってきている。」とのお話も聞きました。
そこには決して忘れないとの想いと、一方では〝忘れたい〟と思う気持ちの葛藤もあるのかもしれません。しかし、一番悲しいのは〝風化〟してしまうことです。
時の流れは少しずつ人の心を変え、出来事を過去のものにしていくでしょう。でも決して忘れてはいけない、未来へ引き継いで行くことが被災地を自分の目で見てきた私たちにできることだと思います。
当時救助に当たった人々や、ボランティア、復興に取り組んできた人々を見た子どもたちの中に「人の役に立つ職に就きたい」と思う若い世代が育っています。
今、改めて振り返ってみると、あの時再会した同僚の言葉がきっかけとなり活動を続けてきましたが、いまだに伝えていないことが多すぎて、これからどうやって伝えていこうかと考え続けています。
あの言葉は自分に与えられた〝大きな終わりのない宿題〟となりました。
これからも、自分のできることを続けていきたいと思います。
清水ではいつ大きな地震が発生してもおかしくない、とすでに何十年も前から言われ続けてきました。近年ではこれまでの想定を大きく上回る南海トラフ地震の発生も懸念されるようになりました。
しかし、皆さんの危機管理意識はどうでしょうか。ここ静岡に住む我々にとって巨大地震は決して他人事ではありません。
今一度、自分と、家族で、身の回りの地震対策について確認する機会を作ってみてはいかがでしょう。