清水では毎年、全国にその名を知られる清水が生んだ夏を代表するイベントのひとつ「全国少年少女草サッカー大会」(以下、草サッカー大会)が開催されています。1980年代、まさか昭和の時代が終わるとは思ってもいなかったある夏の日、当時の少年サッカー界にその名を全国に知られていた清水FCに所属する多くの選手や指導者から「夏休みは(サッカーの)遠征が多くて勉強をする時間がないんだ。」との言葉を聞いた協会スタッフが子どもたちのために真剣に頭をひねりひとつのアイディアを考えたのでした。「清水FCは遠征せず、全国からチームを集めて宿泊形式で大会を開けば良いのではないか」。これなら同時にお盆明けに落ち込む地域経済の活性化につながるばかりか、市全体が盛り上がるに違いないと考えたのでした。その想いは当時清水の少年サッカーの中心でサッカーに全ての情熱を傾けていた多くの先生方や、地域の指導者を動かし、市内16会場36グラウンド男女288チームが集い、5日間かけて試合を行うと言うそれまで類を見ない大規模なサッカー大会が誕生したのでした。このシステムは今もなお他では真似できないまさに〝無二の大会〟として全国に誇れる草サッカー大会は、「サッカーの街・清水」を象徴する大会として続けられています。
「清水のサッカーは地域(地区)の育成会(父母)や少年団、熱心な学校の先生らのボランティア、そしてそれらに関わる地域の人々によって支えられてきたことは間違いありません。日本サッカー協会が〝奇跡の大会〟と高く評価する理由が、まさにここにあるのです。」と語るのはNPO法人清水サッカー協会会長の牧田博之さんです。
自身も子どもの頃からサッカーを始め、社会人リーグでも活躍、今なおサッカーを愛するプレイヤーの一人です。
清水のサッカーも、この大会も始まりは社会人チームや熱心な学校の先生からでした。彼らがこの地でサッカーを育ててきたことで、市(行政)はもとより、日本サッカー協会や野球の支援で知られる朝日新聞の理解と評価を得ることができ、そこから繋がった多大な支援があったからこそ地元の少年団や育成会も頑張ってこれたのだと思います。事実、私がまだ会社員で仕事をしながら協会の理事長に就任した30代後半の時のことでした。会社に清水のサッカー事情を話したところ、そのプレー人口の多さに驚かれたばかりでなく、それならば地域へ貢献することは大切だと理解を得ることができ協会の業務を続けることができたのです。少年サッカーの現場で尽力された指導者の皆さんは、本当に苦労されたと思います。しかし結果的に子どもたちと接する教育者である多くの先生方が指導し、教育の中にサッカーを活かしたことも清水でサッカーが育った一つの要因だと思います。
まさにそれを象徴しているのが草サッカー大会です。この大会は単に試合(プレー)や結果を重視するのではなく、親元を離れて五日間の会期を通して仲間たちと衣食を共にするという、自宅や学校では経験できない体験ができる成長の場であることが長年続く秘訣の一つだと思います。ただ地元チームは会場運営や参加チームのホスト役などで忙しく、この経験を味わえないのが残念です。
この様に、この大会はサッカーの枠を超え地域を巻き込み、市民全体で支え、運営することにより、結果的に経済へも波及して静岡市全体を元気にするイベントとなっているのです。
続いてお話を伺ったのは同協会理事長の西村勉さんです。20年前、約2000人いた小学生も今や半分の人数になってしまいました。当初は少年団のみで行っていた大会ですが、現在は、エスパルスをはじめとするクラブチームも誕生し、少年団と共存しながら、少年サッカーを支えています。また、学校の先生方が主体となって行っていた少年委員会でしたが、今は、クラブチームや地域の指導者が主体となっています。この現実に目をそらすことなく対応し発展してゆくことが求められていると思います。
2013年に子どもたちと一緒に台湾に遠征に行ってきました。これまで草サッカー大会には海外のチームが参加してきましたが、それは〝招待〟と言う形でした。しかし、この遠征による交流の効果や海外チーム向けのホームページを作成するなど大会理念にもある国際交流に対し本格的に取り組んだところ、昨年は17チームのエントリーがありました。韓国、香港、台湾、中国、メキシコと輪が広がっています。試合に参加して優秀な成績を収めることはもちろんの事ですが、彼らにとっては日本に来て同年代の日本の子どもたち(プレイヤー)と交流すること、例えば一緒に練習をしたり、文化の違いに刺激を受けたりと、ここでもサッカーを通じて普段できない経験をする事が楽しみとなっているようです。こういった子どもたちや引率者たちの姿を見ているとインターナショナルな大会の在り方や、インバウンドによる地域活性化の必要性も感じています。
これまで全国に先駆け子どもから大人までがサッカーをプレイする環境を整えた実績を持つ清水だからこそ「ここに来れば磨く場所がある」、「清水でプレイすることに価値がある」、このことを引き継ぎ、磨いていくことがこれからも大会を続けていく意義のひとつだと思います。今年度は様々な事情を考慮し長い大会の中において初めて〝中止〟と言う苦渋の決断を強いることとなりました。しかし、来年またプレイヤーたちの元気な姿が全国から、海外からこの清水に集まることを信じて次の大会の準備を進めて行きたいと思います。ぜひ市民のみなさんも〝おもてなし〟の心で子どもたちを迎えて欲しいと思います。
サッカーに続いてもう一つ、清水の元気の源を紹介しようと思います。
みなさんは「清水の次郎長」をご存知でしょうか。
本名は山本(高木)長五郎、江戸時代終盤の文政3年(1820年)、清水の美濃輪町で高木三右衛門の次男として生まれ、同町内の米問屋である叔父の山本次郎八の養子となりました。
幼少の頃から暴れん坊で悪ガキ、遊び仲間や近所の大人たちからは「次郎八のせがれの長五郎」ということで〝次郎長〟と呼ばれたそうです。
養父の死後、家業を継いだ次郎長でしたが、同時に博打や、喧嘩を重ねやがて任侠の道へと身を投じて行く事になったのです。
この頃の次郎長にまつわる様々な出来事は次郎長の養子であった天田五郎(天田愚庵)により執筆された「東海遊侠伝」により血気盛んな男気溢れるイメージが確立され、これを神田白山が講談に仕立て人気を博し、広沢虎造の浪曲等によりその名が全国に広まったことにより、清水と言えば「次郎長」と、名物になったのでした。
さて、簡単に次郎長の歴史を振り返ったところで、彼を清水を代表する歴史人として後世に伝えようと活動する小松園の牧田充哉さんにお話を伺ったところ意外にも「次郎長さんの菩提寺である梅蔭禅寺の前で商売をさせていただいてきましたが、恥ずかしながら40歳くらいまで次郎長さんに対して興味も関心も高くなかったんです」とこんな言葉から取材は始まりました。
清水の山間部から先代(父親)が清水区梅田町(次郎長菩提寺前)に移り住んだ頃は、まだ周りに田んぼが広がっているような景色でした。しかし、当時は日本経済が上向きかけた頃でもあり、東名高速道路が開通すると言う明るい話題もある中でここにお茶屋を開いたのは先見の明があったのだと思います。
あの頃は虎造の浪曲や、名だたる俳優が次郎長さんを演じた映画、次郎長さんの子分3人を歌った「旅姿三人男」など話題が尽きず、次郎長さんの知名度も人気も高かったため、お寺の周辺に十数件のお土産物屋が立ち並び、ボンネットバスがたくさんの観光客を乗せ、夜中から資料館の開館時間を待っている、そんな景色が当たり前でした。しかしこのような賑やかさを目の当たりにしてもなお、若かった私は「なぜ次郎長さんはそんなに人気があるんだろう。」と思っていたのでした。しかし、歳を重ね改めて彼の人生を振り返り、清水に対する功績を知ったことで、これが観光客だけでなく、特に地元の人に愛される真の魅力であることに気づいたのです。
やがて次郎長さんのお膝元にお店を構えていることも縁となり老朽化した次郎長生家の修復に関わり「NPO法人次郎長生家を活かすまちづくりの会」を設立、理事長を務めることで本格的に次郎長さんを次世代に引き継いでいこうと思うようになったのです。
しかし、アウトローな姿は彼にとって人生の半分に過ぎません。中年期後半から晩年はその生き方を180度転換し世のため人のため、清水のために生きるようになったのです。
きっかけは明治維新。幕府が崩壊し世の治安が不安定になった頃でした。この時、駿府周辺の治安回復を図るため民生長官に任命されていた伏谷如水から次郎長が沿道警固役に抜擢されたのです。彼が49才の時でした。これを機にこれまで築いてきた人脈や立場を活用し、清水の発展に尽力するようになったのですが、そこは次郎長、政治家とは違い男気で街に元気をもたらしたのでした。その象徴とも言える出来事が「咸臨丸事件」です。明治元年、咸臨丸は榎本武揚率いる艦隊として品川沖を航行中、強烈な台風に見舞われ船体に大きなダメージを受けてしまいます。その修復のため下田を目指したのですが、そこには新政府軍の姿があったため、入港を断念し、清水港へたどり着き修理をしていたところを新政府軍に見つかり攻撃を受け多くの乗組員が戦死してしまいましたが、その遺体は新政府軍から「賊兵」とされ海に投棄されたのでした。この時、政府から「賊軍に加担するものは厳罰に処す」とのお触れが出ていたため、誰一人として遺体を片付けるものがいませんでした。そこで立ち上がったのが次郎長でした。若い衆を引き連れて遺体を引き上げ手厚く葬ったのでした。しかし、この行為は当然政府の反感を買うことになりましたが次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と突っぱねたと言います。当時、駿府藩幹事役だった山岡鉄舟はこの言葉に感銘を受け、咸臨丸乗組員の墓に自ら筆をとり「壮士の墓」と墓碑銘を送ったそうです。
このように行動を起こすことで成果につなげ清水港をお茶の港に育てたり、英語教育を支援するため私塾を開き、富士の荒れ地の開墾など多くの功績を残した反面、本人は表舞台には出ず〝現場を支える〟そんな存在だったようです。そんな人情に厚く、地元の街の発展に尽くした彼に対し〝清水っ子〟たちは今でも尊敬の念と親しみを込めて「清水の次郎長」ではなく『次郎長さん』と呼びます。
清水では毎年夏に「清水みなと祭り」が開かれ、その中の人気行事の一つに市民から役者を募って練り歩く「次郎長道中」があります。真夏の熱い日差しの中、かつらや衣装を身につけて、勇ましい〝口上〟を発する姿には拍手喝采が送られるほどです。しかし、役者の年齢、喝采を送る観客の姿を見ているとこのままでは次郎長さんが忘れられてしまうのではないかとも思います。
今年は次郎長さん生誕200年にあたる節目の年です。そこで各種団体の賛同、協力を得て「次郎長と港を活かした清水活性化協議会」も立ち上げましたが残念ながら企画した各種イベントは中止を余儀なくされ、現状活動は止まっている状態です。ただ、できるなら近いうちに何かできたらと思っています。
親分肌でアウトローのイメージが知られる彼ですが、後世に残した素晴らしい功績の数々は地元でも一部の人のみぞ知る部分です。今、自分たちが立ち上がらないと今後、次郎長さんの名前は消えていってしまうかも知れません。
これからは「次郎長さん」をキーワードに活性化への一歩をさらに踏み出して行けたらと思っています。